写真家と被写体の間にあるもの—引力と斥力—
最初期の下書きから。
大学受験で出題される文章には、時たま写真に関連するものがある。自分のよく知っている写真家の名前が出てきたり、注が付いていたりすると、「俺は知ってるぜ」みたいな感じで気分が良くなり捗ったものだった。
そんな文章の1つで、大学受験を終えた今でも印象に残っているものがある。どうやらそのテキストは処分してしまったみたいなんだけど(惜しいことをした)、内容はちゃんと覚えてる。記述を書いた記憶が無いからセンター対策のときか。
その文章の中では、こう語られている。出典が分からないから要旨だけになるけど。
写真を撮るとき、写真家の心はその被写体に向かい、引き付けられる。
しかし同時に、近づきすぎては写真は撮れないから、写真家は被写体と適度に距離を保たねばならない。
この引力と斥力の綱引きを渡り歩きながら、写真家は写真を撮っているのだ。
これを読んだとき、現在進行形で問題を解いているのに、不覚にも感動してしまった。これがまさに、自分の実感していたことではなかったか。写真を撮る時の孤独感に答えが与えられた気分だった。
写真を撮るときは、常に状況を俯瞰する目線を持ち、周りの人間からは一歩離れた場所から物事を見ているように、そしてそうしなければ写真は撮れないように思う。群衆の中に埋もれているところから、群衆の写真を撮ることはできないからだ。
写真を撮る人の間で集まると、このことは目に見えてわかる。これは悪口と思わないでほしいが、彼ら・彼女らは、固まって一緒にいることができないのだ。みんな少しづつ離れて、カメラを構えてる。今風に言えばソーシャルディスタンスみたいな感じでバラけて立っているけど、周りから見たらちょっと面白いかもしれない。
写真を撮る人はみんなから撮ってもらえない。自分の写真はあんまりない。他の人からはちょっと離れたところに立ってるから、口数も減る。たまに気遣ってくれる友人がいて、嬉しいんだな。まあそれはさておき、それでいいじゃないか。人の輪にどっぷり浸かると、見えなくなるものがありそうで私は怖いよ。
街で写真を撮っていると、どうしようもなく異質で、人々に溶け込まない自分を感じることがある。溶け込もうとも思ってないけども、一緒になって流れていたら、写真は撮れないんだ。常に異邦人たれ?